★ぴあサポメルマガ2月号★ 共感の時代の片隅で~ピアサポート活動の実践から~
2022/02/16 (Wed) 16:38
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共感の時代の片隅で
~ピアサポート活動の実践から~
―――――★ぴあサポメルマガ2月号★
互いの共通性を見出すことで我々は他者とともに同じ時間を過ごしたり、何かを共にすることができる。我々は大学生活で、自分とは異なる属性や経験をしてきた人々と勉学に励み、サークル活動をし、恋愛をする。その時、自他の同一性を見出すことで相手を理解したり円滑にコミュニケーションをとったりすることができる。同じ出身地、同じ国籍、同じ性別、同じ学科、同じ学問的関心、etc。相手と自分の同一性を見つけることで、我々は仲間がいるという安心感のもと何かに取り組める。
この時に重要な技術が共感だろう。共感の重要性については、大学のオリエンテーション、バイトの研修、心理学系の授業、ネット記事、様々なところで耳にしてきたことだろう。数年前、傾聴という言葉が広く流布すると同時に、共感の重要性も巷で盛んに唱えられるようになってきた。この技術というか能力の重要性については否定しようがない。
ただ、共感することの重要性が盛んに唱えられるピアサポート活動に従事していて、他者との関係を共感に基づいて構築することの限界や、違う関わり方の可能性が見えてきた。まずこのきっかけを記すとともに共感だけに基づいて他者と接することの限界を指摘した。共感は時に自分と相手の違いを覆い隠す。その次に、ピアサポートルームの活動に基づいて、自分と相手の違いを踏まえて、相手と接するために必要な態度や考え方を考察した。
共感が得意な人ばかりではなく、感情を表現したり、相手に何かを伝えることが得意な人ばかりではないだろう。どちらかといえば私もそのタイプである。共感ばかりしあうことは時に息苦しさを伴う。そんな人たちに共感してもらうというよりかは、読んだあらゆる人とともにこの事柄について考えるためにこの文章を執筆したつもりである。
■目次■
1.よもやま語らいゼミでの一コマ
2.わからくなっていい
3.互いに問いかける
◇◆◇―――――――――
1.よもやま語らいゼミでの一コマ
―――――――――◆◇◆
こんなことを考え出したのはきっかけがある。ピアサポートルームのイベント「よもやま語らいゼミ」※1でのことだ。このイベントでは、対等に、自由に、互いを尊重してをコンセプトに、あるテーマを参加者が考えるものだ。その回は楽しさがテーマで、「楽しさをいつ感じるか?」などのトピックについて運営側、参加者側が一体となって議論していた。確か、「楽しさを感じている時の自分はどのような状態にいるか?」というトピックについて議論していたとき、ある参加者が、楽しいと感じている時自分は心身の状態が活発になっているように感じる、という旨の主張をした。彼によれば、楽しさを感じている時、自分と周囲の環境が一体になるような感覚を抱くのだという。その発言を聞いた私は、確か司会をやっていたのだが、とても共感し、そう相手に伝えた。そのトピックに対して自分も同じような事を考えていた。私も楽しい時、例えばスポーツをしている時、夢中になるにつれて自分と周り環境の境界が薄れていると思った。私の場合そうなったら、自分の楽しさがどんどん外側に向かって発散されていくような気分になるのだ。そして、似たことを考えているんだなぁと、その発言をした人に対して感じた。
けれども、次のワークの時にその感慨は跡形もなくなくなった。議論の後に、楽しいときの感覚をイラストで表現してみる、というワークを行った。私は先程考えていたことに基づき、図の中央に人型を書いた。そして全身から外側に向かって伸びている多くの矢印を書いた。楽しいとき、自分と世界との境界が薄れ、自分の気分が周囲に充満するような感覚を表現した。先程私が共感を示した彼が見たイラストを見て私は驚いた。彼は似て非なる表現をしていた。彼もまた図の中央に人型を配置していた。その周りを矢印が取り囲んでいたのだが、その矢印は内側を向いていた。彼の説明によると、楽しいときは自分と周囲の世界が一体となっていくのだが、どんどん自分の内面が研ぎ澄まされていくような感覚になるという。言われてみれば、先程の議論の時間でも彼はその旨の発言をしていたし、思い返せば私も確かにその旨の発言を聞いていた。しかし、自分と周囲の境界が薄れていくという部分での一致に気を取られ、内面が研ぎ澄まされるという彼の主張を理解し損ねていた。それは矢印の向きの違いという、わずかだが大きな考え方の差だった。イラストで表現し、視覚的に確認することで初めて、私は彼との感じ方・考え方の大きな違いに気づいた。
彼との差異に気づかずナイーブに共感していた私は、自分と相手の考えの同一性に着目するあまり、相手と自分の差異に気づいていなかったのだ。自分の考えを相手に投影し、投影した自分の考えに対して共感を寄せいていたともいえよう。私が気づいていなかった相手の考えが、相手の考えを理解するうえで重要なものにかかわらず。同一性を見出すことで、私たちは誰かを理解できたり、そのうえで何かをすることができる。けれども、その作業は時に相手と自分の差異を覆い隠す。自分と相手の差異に開かれたまま、相手とともにいるには共感とは別の原理が必要だと思われる。相手と対峙する時に、相手の中に自分を見出さず、他者として出会うためには同一性だけではなく差異性にも目を配らなければならない。では、差異を認めて相手と一緒にいるにはどうすればいいのだろうか。
※1 この文章の中に出てくる事例は、すべてある実際の経験を基にした虚構である。このイベントに参加したからと言って、発言内容等が無断に記述されることはない。ここではある種のリアリティーを表現するために、あえて実際のイベントであったような書き方をしている。
◇◆◇―――――――
2.わからなくなっていい
―――――――◆◇◆
よく差異を認めて相手と接しようとか、相手の違いを尊重しようなどのお題目が掲げられる。けれども、このお題目とは裏腹に自他の差異は時にストレスになる。例えば、私は寮で暮らしているとこのことを実感する。寮には国籍、年齢、所属大学、等が異なる様々な学生が暮らしている。そして寮では背景が違う者同士が、協同で何かをしなければならない。例えば、寮のゴミ出しや掃除である。掃除は寮でよくもめる事柄の一つだ。どこを、どの程度、だれが、だれと掃除するのか。この点をめぐってしばしば争いが生じる。先日も研究に忙しく時間を節約したい大学院生と掃除が好きで力を入れて清掃をしたい学部生の意見が対立していた。清潔さは個々人の感性に深く根ざし、生活環境の快適さにも結びつくものであるから両者は互いの立場を理解できず、対立もなかなか収まることはなかった。自他の差異とは、ときに互いの不理解やそれによる対立に結びつく。
よもやま語らいゼミを運営していると自他の差異に出会うことがよくある。この時に有効な態度はイベントのグランドルール※2にもある、わからなくなってもいい、という原則だ。実際、イベントでの発言は時によくわからないものがある。よくわからないというのは、日本語として意味が通じていないというわけではなく、相手の中に根本的に理解が不可能な何かを認める、ということだ。例えば、昔あるイベントである人が、自分は20代でロックバンドをやっていて29歳までにメジャーデビューできなければ死のうと思っていたと口にした。彼は結局メジャーデビューもできず死にもしなかったが今に至るまでの趣味ができたのでいい経験だったと言っていた。もちろん、この発言内容についての意味は完全に理解できる。だからこそ、相手の発言の背景や細部や、人生経験や考えが余計に気になって相手のことがわからなくなった。これは、わかるとわからないが奇妙に入り混じった経験だった。ここで相手のすべてを理解しようとしたら、対話を続けることは困難になっていただろう。そんなことはいくら時間をかけてもできないのだから。自他の差異というのは、時にこういったわからなさになって私たちに襲い掛かるのだ。けれども、わからなくなってもいいというルールを設けることで語り合うことが可能になるように、わからなさを許容することで、我々は他者とともに生を送れる。自他の差異とは解決するべき何かではなく、人間関係を営む上での事実であるように思われる。事実というのは、解決したり変更できる何かではなく、所与の前提であるということだ。我々が誰かとともに何かをするためには、自他の差異を受け止めなければならない。それは、わからなさを許容しなおも相手と関わり続けるという態度が必要だと思う。
※2
・何を発言してもよい
・他者が発言したことに対して否定的な態度をとらない
・発言せず、ただ聞いているだけでもよい
・お互いに問いかけるようにする
・知識ではなく、自分の経験に即して話す
・話がまとまらなくてもよい
・意見が変わってもよい
・分からなくてもよい
◇◆◇――――――――
3.互いに問いかける
――――――――◆◇◆
他者のわからなさを許容するとは、冷淡な主張に聞こえるかもしれない。確かに、この主張だけを切り取ってみたらそうかもしれない。相手の事なんてわからない、何を言っても無駄だ、あいつとは関わらないようにしよう、自分と相手の差異に気づいたとき時に我々はこのように考えがちである。わからなさを許容するとは、こうした相手に対する絶望や拒絶に結びつくものでもない。それは、相手と関わろうという意思を持つものだ。この時に重要なのが、よぜみのルールで保証されている、互いに問いかける、というルールだ。イベントでは、自分とは違う意見、よく理解できない発言が出たときに互いに問いかけていいというルールを採用している。
例えば、昔あるイベントで、このルールの大事さを実感することがあった。ある参加者が我々若い世代は積極的に出産や育児に励むべきだというような少し極端な主張をした。それに対して別の参加者が、自分はそのように考えないがなぜそう考えるのか問うた。すると、その発言の主は、その人の父親が苦労してその人を育てた話や、父がその人に対して感謝をするようになったという話をした。だから、その人は人間的に必要な成長ができるから、積極的に育児や出産にかかわるべきだと考えるようになったという。この主張を聞いても少なくとも私は「我々若い世代も積極的に出産や育児に励むべきだ」という主張には全面的に同意はできなかった。けれども、その人がなぜそのような発言をするのかについては理解できた。そしてその場は、人間的に必要な成長とは何か、という話題に移っていった。互いに問いかけるとは、このように自他の共通点や相違点、それを生み出す経験や考え方の違いを確認することである。この作業をすることで、相手と関わるうえでの適切な距離感が見つけられるのではないだろうか。だから問いかけるとは、わからなさを前提として、そのうえで相手と関わるために必要な技術であると思われる。もちろん、実際の人間関係では、問いかけるのが困難な関係というのもあるだろう。この場合でも、相手に対する問いを心のどこかに持ちながら相手と接することは有効だと思われる。問いを持ちつつ相手と接するとは、自他の共通点と相違点、理解できるところと理解できないところに開かれて相手と関わるということだからである。
◇◆◇―――――――
4.結語
―――――――◆◇◆
共感は対人関係を構築するうえで重要な技法であろう。この点は否定できない。だが、共感ばかりでも息苦しい。このような息苦しさからどのように自由になれるか。自由になったうえでどのように他者と関われるだろうか。
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総合文化研究科M2
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共感の時代の片隅で
~ピアサポート活動の実践から~
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互いの共通性を見出すことで我々は他者とともに同じ時間を過ごしたり、何かを共にすることができる。我々は大学生活で、自分とは異なる属性や経験をしてきた人々と勉学に励み、サークル活動をし、恋愛をする。その時、自他の同一性を見出すことで相手を理解したり円滑にコミュニケーションをとったりすることができる。同じ出身地、同じ国籍、同じ性別、同じ学科、同じ学問的関心、etc。相手と自分の同一性を見つけることで、我々は仲間がいるという安心感のもと何かに取り組める。
この時に重要な技術が共感だろう。共感の重要性については、大学のオリエンテーション、バイトの研修、心理学系の授業、ネット記事、様々なところで耳にしてきたことだろう。数年前、傾聴という言葉が広く流布すると同時に、共感の重要性も巷で盛んに唱えられるようになってきた。この技術というか能力の重要性については否定しようがない。
ただ、共感することの重要性が盛んに唱えられるピアサポート活動に従事していて、他者との関係を共感に基づいて構築することの限界や、違う関わり方の可能性が見えてきた。まずこのきっかけを記すとともに共感だけに基づいて他者と接することの限界を指摘した。共感は時に自分と相手の違いを覆い隠す。その次に、ピアサポートルームの活動に基づいて、自分と相手の違いを踏まえて、相手と接するために必要な態度や考え方を考察した。
共感が得意な人ばかりではなく、感情を表現したり、相手に何かを伝えることが得意な人ばかりではないだろう。どちらかといえば私もそのタイプである。共感ばかりしあうことは時に息苦しさを伴う。そんな人たちに共感してもらうというよりかは、読んだあらゆる人とともにこの事柄について考えるためにこの文章を執筆したつもりである。
■目次■
1.よもやま語らいゼミでの一コマ
2.わからくなっていい
3.互いに問いかける
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1.よもやま語らいゼミでの一コマ
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こんなことを考え出したのはきっかけがある。ピアサポートルームのイベント「よもやま語らいゼミ」※1でのことだ。このイベントでは、対等に、自由に、互いを尊重してをコンセプトに、あるテーマを参加者が考えるものだ。その回は楽しさがテーマで、「楽しさをいつ感じるか?」などのトピックについて運営側、参加者側が一体となって議論していた。確か、「楽しさを感じている時の自分はどのような状態にいるか?」というトピックについて議論していたとき、ある参加者が、楽しいと感じている時自分は心身の状態が活発になっているように感じる、という旨の主張をした。彼によれば、楽しさを感じている時、自分と周囲の環境が一体になるような感覚を抱くのだという。その発言を聞いた私は、確か司会をやっていたのだが、とても共感し、そう相手に伝えた。そのトピックに対して自分も同じような事を考えていた。私も楽しい時、例えばスポーツをしている時、夢中になるにつれて自分と周り環境の境界が薄れていると思った。私の場合そうなったら、自分の楽しさがどんどん外側に向かって発散されていくような気分になるのだ。そして、似たことを考えているんだなぁと、その発言をした人に対して感じた。
けれども、次のワークの時にその感慨は跡形もなくなくなった。議論の後に、楽しいときの感覚をイラストで表現してみる、というワークを行った。私は先程考えていたことに基づき、図の中央に人型を書いた。そして全身から外側に向かって伸びている多くの矢印を書いた。楽しいとき、自分と世界との境界が薄れ、自分の気分が周囲に充満するような感覚を表現した。先程私が共感を示した彼が見たイラストを見て私は驚いた。彼は似て非なる表現をしていた。彼もまた図の中央に人型を配置していた。その周りを矢印が取り囲んでいたのだが、その矢印は内側を向いていた。彼の説明によると、楽しいときは自分と周囲の世界が一体となっていくのだが、どんどん自分の内面が研ぎ澄まされていくような感覚になるという。言われてみれば、先程の議論の時間でも彼はその旨の発言をしていたし、思い返せば私も確かにその旨の発言を聞いていた。しかし、自分と周囲の境界が薄れていくという部分での一致に気を取られ、内面が研ぎ澄まされるという彼の主張を理解し損ねていた。それは矢印の向きの違いという、わずかだが大きな考え方の差だった。イラストで表現し、視覚的に確認することで初めて、私は彼との感じ方・考え方の大きな違いに気づいた。
彼との差異に気づかずナイーブに共感していた私は、自分と相手の考えの同一性に着目するあまり、相手と自分の差異に気づいていなかったのだ。自分の考えを相手に投影し、投影した自分の考えに対して共感を寄せいていたともいえよう。私が気づいていなかった相手の考えが、相手の考えを理解するうえで重要なものにかかわらず。同一性を見出すことで、私たちは誰かを理解できたり、そのうえで何かをすることができる。けれども、その作業は時に相手と自分の差異を覆い隠す。自分と相手の差異に開かれたまま、相手とともにいるには共感とは別の原理が必要だと思われる。相手と対峙する時に、相手の中に自分を見出さず、他者として出会うためには同一性だけではなく差異性にも目を配らなければならない。では、差異を認めて相手と一緒にいるにはどうすればいいのだろうか。
※1 この文章の中に出てくる事例は、すべてある実際の経験を基にした虚構である。このイベントに参加したからと言って、発言内容等が無断に記述されることはない。ここではある種のリアリティーを表現するために、あえて実際のイベントであったような書き方をしている。
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2.わからなくなっていい
―――――――◆◇◆
よく差異を認めて相手と接しようとか、相手の違いを尊重しようなどのお題目が掲げられる。けれども、このお題目とは裏腹に自他の差異は時にストレスになる。例えば、私は寮で暮らしているとこのことを実感する。寮には国籍、年齢、所属大学、等が異なる様々な学生が暮らしている。そして寮では背景が違う者同士が、協同で何かをしなければならない。例えば、寮のゴミ出しや掃除である。掃除は寮でよくもめる事柄の一つだ。どこを、どの程度、だれが、だれと掃除するのか。この点をめぐってしばしば争いが生じる。先日も研究に忙しく時間を節約したい大学院生と掃除が好きで力を入れて清掃をしたい学部生の意見が対立していた。清潔さは個々人の感性に深く根ざし、生活環境の快適さにも結びつくものであるから両者は互いの立場を理解できず、対立もなかなか収まることはなかった。自他の差異とは、ときに互いの不理解やそれによる対立に結びつく。
よもやま語らいゼミを運営していると自他の差異に出会うことがよくある。この時に有効な態度はイベントのグランドルール※2にもある、わからなくなってもいい、という原則だ。実際、イベントでの発言は時によくわからないものがある。よくわからないというのは、日本語として意味が通じていないというわけではなく、相手の中に根本的に理解が不可能な何かを認める、ということだ。例えば、昔あるイベントである人が、自分は20代でロックバンドをやっていて29歳までにメジャーデビューできなければ死のうと思っていたと口にした。彼は結局メジャーデビューもできず死にもしなかったが今に至るまでの趣味ができたのでいい経験だったと言っていた。もちろん、この発言内容についての意味は完全に理解できる。だからこそ、相手の発言の背景や細部や、人生経験や考えが余計に気になって相手のことがわからなくなった。これは、わかるとわからないが奇妙に入り混じった経験だった。ここで相手のすべてを理解しようとしたら、対話を続けることは困難になっていただろう。そんなことはいくら時間をかけてもできないのだから。自他の差異というのは、時にこういったわからなさになって私たちに襲い掛かるのだ。けれども、わからなくなってもいいというルールを設けることで語り合うことが可能になるように、わからなさを許容することで、我々は他者とともに生を送れる。自他の差異とは解決するべき何かではなく、人間関係を営む上での事実であるように思われる。事実というのは、解決したり変更できる何かではなく、所与の前提であるということだ。我々が誰かとともに何かをするためには、自他の差異を受け止めなければならない。それは、わからなさを許容しなおも相手と関わり続けるという態度が必要だと思う。
※2
・何を発言してもよい
・他者が発言したことに対して否定的な態度をとらない
・発言せず、ただ聞いているだけでもよい
・お互いに問いかけるようにする
・知識ではなく、自分の経験に即して話す
・話がまとまらなくてもよい
・意見が変わってもよい
・分からなくてもよい
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3.互いに問いかける
――――――――◆◇◆
他者のわからなさを許容するとは、冷淡な主張に聞こえるかもしれない。確かに、この主張だけを切り取ってみたらそうかもしれない。相手の事なんてわからない、何を言っても無駄だ、あいつとは関わらないようにしよう、自分と相手の差異に気づいたとき時に我々はこのように考えがちである。わからなさを許容するとは、こうした相手に対する絶望や拒絶に結びつくものでもない。それは、相手と関わろうという意思を持つものだ。この時に重要なのが、よぜみのルールで保証されている、互いに問いかける、というルールだ。イベントでは、自分とは違う意見、よく理解できない発言が出たときに互いに問いかけていいというルールを採用している。
例えば、昔あるイベントで、このルールの大事さを実感することがあった。ある参加者が我々若い世代は積極的に出産や育児に励むべきだというような少し極端な主張をした。それに対して別の参加者が、自分はそのように考えないがなぜそう考えるのか問うた。すると、その発言の主は、その人の父親が苦労してその人を育てた話や、父がその人に対して感謝をするようになったという話をした。だから、その人は人間的に必要な成長ができるから、積極的に育児や出産にかかわるべきだと考えるようになったという。この主張を聞いても少なくとも私は「我々若い世代も積極的に出産や育児に励むべきだ」という主張には全面的に同意はできなかった。けれども、その人がなぜそのような発言をするのかについては理解できた。そしてその場は、人間的に必要な成長とは何か、という話題に移っていった。互いに問いかけるとは、このように自他の共通点や相違点、それを生み出す経験や考え方の違いを確認することである。この作業をすることで、相手と関わるうえでの適切な距離感が見つけられるのではないだろうか。だから問いかけるとは、わからなさを前提として、そのうえで相手と関わるために必要な技術であると思われる。もちろん、実際の人間関係では、問いかけるのが困難な関係というのもあるだろう。この場合でも、相手に対する問いを心のどこかに持ちながら相手と接することは有効だと思われる。問いを持ちつつ相手と接するとは、自他の共通点と相違点、理解できるところと理解できないところに開かれて相手と関わるということだからである。
◇◆◇―――――――
4.結語
―――――――◆◇◆
共感は対人関係を構築するうえで重要な技法であろう。この点は否定できない。だが、共感ばかりでも息苦しい。このような息苦しさからどのように自由になれるか。自由になったうえでどのように他者と関われるだろうか。
【筆者紹介】
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